街中歩き 内灘砂丘の歴史と海
4月7日はとても天気が良く、いつもの街中歩きで石川県の内灘町を歩きました。
まずは内灘砂丘の白帆台団地から歩きます。
新しい住宅が建ち並び、高台からは富山の北アルプスの白く輝いた山々がきれいでした。
団地から海側に広がる砂丘地の畑の中を歩きました。
一人ぽつんと草むしりしていたおばさんに今は何を植え取られるのですかとお聞きすると、「これ玉ねぎよ」と言われました。
砂地にきれいに植え付けられた玉ねぎです。
ここからいったん内灘の海まで歩きです。
海の潮騒と清々しい風を頬にうけながら、もう一度道歩きに戻ります。
この内灘砂丘の歴史には過去に内灘闘争があり、その跡地をぜひ見たくて歩いていると砲撃着弾場の看板を見つけました。
人がほとんど歩いていない草生した道を歩くと、小高い丘の上に古いコンクリートの塊を見つけました。
内灘闘争を調べると朝鮮戦争に出軍した米軍が砲弾の正確さや不発弾など実験するために国がこの内灘砂丘地を実験場として米軍に提供したことから始まったのです。
砲撃の音や振動などで魚がとれなくなった、畑ができない、米軍が来て治安が悪くなるなど住民の反対運動が巻き起こったのです。
当時の内灘村を二分する反対、賛成派の闘争だったと記事に書かれていました。
結局3年間米軍がこの砂丘を砲弾実験場としたのです。
草藪のいばらを払いながら近づくと、この砲弾実験場の案内板がありました。
コンクリートの入り口の扉はもうなく、中に入ると部屋の中に細い横長の窓からうす暗い明かりが差し込んでいました。
ここが問題の砲弾実験場の着弾だったのかと本や記事で知った内灘の歴史を目の当たり見て、内灘の昔の人々の闘争の苦労を少し感じました。
砲弾着弾場を後にして、歩くと室青塚の看板がありました。
大昔の内灘の歴史を語る祭壇があり、そこにはいろいろな色の鮮やかな椿の花が咲いていました。
大昔、外国から来た人がこの地に住まいしたようです。
帰りも北アルプスを見ながらの歩きです。
団地の新しい遊園地に遊ぶ子供たちの元気な声を聴きながら、自分の車に戻り、時計を見ると3時間余りの歩きでした。
内灘町の発展している団地の新しいものと、町の歴史を少し学べた街中歩きでした。